【連載 コラム No.13】哲学界のロックスター vs.イノベーターシップの賢人

哲学界のロックスター vs.イノベーターシップの賢人
「哲学界のロックスター」と称されるのはドイツのマルクス・ガブリエル。2009年に史上最年少の29歳でボン大学に着任し、認識論・近現代哲学講座を担当すると同時に、同大学国際哲学センター長も務めています。
その独特な世界解釈は「新実在論」という哲学の新カテゴリーとなり哲学の最先端を切り拓き続けています。
では、まず彼の議論を概観していましょう。ガブリエルは、従来の哲学的な世界観を覆し、「世界は存在しない」という斬新な主張を展開します。
中心となる主張:「世界は存在しない」。これは世界的ベストセラーとなった彼の出世作のタイトルにもなりました。ガブリエルは、私たちが通常「世界」と呼んでいる、全てを包括する単一の存在は存在しないと主張。これは、世界が全てのものを包括しようとすると、それ自体が矛盾に陥るためです。
ここで、彼は「存在」というものを考えます。例えば、海底にあり乙姫様と魚たちがもてなしてくれる「竜宮城」はどうでしょう。「存在する」と言えるでしょうか。海底には竜宮城が存在するのか、と問われた海洋科学者は「存在するわけがない」と答えるでしょう。
でも、浦島太郎の物語の中ではそれはたしかに「存在」しています。子供が読んでいる浦島太郎の絵本の中にも当然「存在」しています。この場合の「存在しない」、「存在する」は何が決めているのでしょう。
ある人にとって存在するものが、ある人には存在しない。これはビジネス機会についても同じことが言えると思いませんか。あなたにはあるビジネスチャンスが明確に見えている。しかし、あなたの上司にとっては、まったくもってそのようなものは存在していない。よくある話ではないでしょうか。
リスキリングについても同じです。例えば、新しいスキルを身に着けたあなたが新天地で大活躍する夢を見たとしましょう。同僚にその夢の話をしたとしましょう。「そんなのただの夢だろ(存在しない)」という反応もあるでしょう。しかし、あなたにとっては夢の中ではたしかに新しいご自身が存在したわけです。
かように「存在」というものは日常的に使われている言葉としてみてもそこには何か不確かなものがつきまといます。
ここでガブリエルは言います。
存在するとは、「何かが意味の場に現れているという状態、それが存在するということである」 と。
竜宮城は海洋科学という「意味の場」には現れてきません(存在しない)。けれども浦島太郎という物語の「意味の場」には現れてくる(存在する)。あなたが新天地で活躍することは、あなたの夢という「意味の場」には確かに存在する。同僚がそれを否定することはできません。
あなたが見出したビジネスチャンスはあなたのマーケットの見方という「意味の場」に現れてきた(存在する)が、上役の観察するところのマーケットという別の「意味の場」には存在しない。
このように「存在」を特定の「意味の場」に現れでることとすると多様な存在が許されることになるのです。
トランプ政権という「意味の場」にはトランスジェンダーは存在しないが、その他の多くの意味の場には存在する。
では、なぜ「世界」だけは存在しないのか?この場合の「世界」とはすべてをその中に包含するものと考えてください。「世界」が存在するとする以上、「世界」は何らかの「意味の場」に現れ出なければいけない。しかし、その「意味の場」自体が存在するためにはその「意味の場」も別の「意味の場」に現れでなければいけない、そしてその「意味も場」もまた・・・・。このようにどこまで行っても止まらない無限後退に陥るからです。
無限後退と申し上げました。もしかしたら分かりにくいかもしれませんが、これは哲学や論理学でよく使われるロジックです。手鏡をもって鏡の前に立ってみてください。鏡を持ったあなたの鏡像は無限につづいていきます。止まるところがありません。そのような結論がでない状態を指すと考えていただけると直観的にはご理解いただけるのではないでしょうか。さらに、ガブリエルの議論の関係で言葉を足せば、「世界」がすべてを包含している以上「世界」以外には何も存在していません。ということは世界の存在の前提となる「意味の場」も当然存在しないと言う結論になります。もしなんらかの「意味の場」、もしくは「文脈」といってもよいかもしれませんが、が世界の外に存在していたとしたら、その世界は「すべてのものを包含している」ことにならないのでもはや「世界」とはいえなくなります。
竜宮城、量子力学、キャリアの夢、その他あらゆるものを包含し、統一した説明を与えるもの(=「世界」)存在はないのです。ガブリエルは「全ての意味の場を包括する単一の存在」の存在を否定しているわけです。
このような「世界の存在否定」によってガブリエルは何を目指したのか。
次回引き続き考えてみたいと思いますが、実はトクオカが説くものと同じなのです。それは、「解放」、「自由」、「多様性」。この世のすべてを説明するなにがしかの論理があるという考え方は、科学が人間まで対象とする現代において非常に危険な結論をまねきかねません。それは科学決定論といってもよい、人間の自主性や能動性を否定するような議論です。「唯脳主義」がその最たるものです。人は自分が何をしたいのか決定できない。それは脳内のシナプスのつながり方で決まる。人はそれを自分の意志と勘違いしているだけだというのです。トクオカがイノベーターシップやリスキリングで説く様々な方法論が立脚する自由で意志ある人間観と正反対であることはおわかりいただけるかと思います。その意味でガブリエルはトクオカの応援団であるのです。
続きはまた来月。