【連載 コラム No.7】「我思う故に我あり」のデカルトとトクオカはそりがあうか?
みなさん、こんにちは。お元気でお過ごしでしょうか。
イノベーターシッププログラムの本年度第二期も早中盤を迎え
わたくしも講師兼モデレータとして受講生の皆さんと一緒に勉強させていただいております。
さて、早速小難しい話にはいっていきましょう。観念論です。
観念論とは人の世界の認識をテーマとする哲学の一分野です。
「人は果たして世界の真実の姿を認識可能なのか?」という問いに答えようとする哲学です。
ま、日々忙しい読者各位からするとなんと悠長なという感じがしてしまうのも仕方ない。
例えば、「あれはリンゴである」という判断(個物の認識=主観)は果たして必ず正しい(客観的)と言えるのか?
考えてみれば難しい問です。
もしかしたらよくレストランの店頭にあるようなリンゴを模したプラスチックかもしれない(十分あり得る)。
視界の裏側は時計になっているのかもしれない(ないこともない)。
空腹がもたらした錯覚かもしれない(ま、蜃気楼のようなもん)。
はたまた夢を見ているのかもしれない。と、人の認識を疑いだしたらきりがない。
デカルトは懐疑の余地のない確実な「なにものか」を探し求めた人物です。
デカルトの結論は有名な「我思う故に我あり」。
あらゆるものを疑ってかかり、最後に残った唯一確実なものが「今こうして懐疑している自分」だったということです。
他のすべてのことは疑義がつきまとうが、「今こうして考えている自分」の存在は疑いようがないと。
ただし、反射的にもしデカルトが言うとおりなら世界には「考える自己」以外何も確実なものはないということになります。
これでは困るわけです。
ちなみにデカルトは1596年生まれ。フランス革命にざっと200年先立ちます。
そんな時代背景もあり、デカルトはここで神を忍び込ませます。
人間の認識行為が唯一確実なものであるということを出発点にした上で神のご加護を加味し、
人間の認識は理性的でものごとを正しく認識できるのだと、
牽強付会に結論に持ち込みます。
次に登場するのがカント。カントは神の助けなしに観念論を発展させました。
このところは本シリーズ第3回でカントとトクオカの有刺決戦の生中継いたしました。
覚えてらっしゃる方はいないでしょう。
【連載 コラム No.3】カントvs.トクオカ
さて、近代哲学はデカルトを出発点とします。
ならば、トクオカには是が非でもデカルトとも相見まみれてもらわざるを得ない。
多少軸をずらしましょう。
トクオカは職業キャリアをつんできた方々に徹底した懐疑を求めます。
自分とは何者か。何者ではないのか。
漠然とした自己認識が的を得たものである可能性は必ずしも高くありません。
自分の認識を刷新し真の意味で自己を客観視する。
それからリスキリングやイノベーターシップの研修を通じて自己の内面を深堀し外縁を拡大していくというのがトクオカ流です。
自己を懐疑する。いわゆる自分探しではありません。
徹底的に懐疑して余分なものをそぎ落とし、自分の芯を知る。
そして「我○○す、故に我なり」との覚悟に至る。
「我、いまこそライフシフトす、故に我なり」
「我、いまこそ起業す、故に我なり」
「我○○す、故に我なり」の○○に何を入れるか。
それが職業人としてのあなたの芯でありビジョンになります。
徹底的に思考しぬかなければならない。自己存在の根本まで問う、それがライフシフト社が他社と一線を画すところだと思います。
トクオカとデカルトがもし同時代に出会っていたらきっと意気投合したことでしょう。
ではまた来月お目にかかりましょう.