【連載 コラム No.8】「人生の目的」とは?とヘーゲルとトクオカ
みなさん、こんにちは。
さて、今回はデカルトを源流とする大陸合理論の集大成。ヘーゲルを取り上げます。
今年も終わりですが、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」。
もしかしたらお読みになった方もいるかもしれません。
ベルリンの壁が崩壊し1991年にはソビエト連邦が瓦解。
その翌年に出版された同書は、リベラル民主主義体制の最終的勝利宣言の書として世界的ベストセラーとなったのです(原題”The End of History and the Last Man”)
しかし、実際は東西冷戦で封じ込まれていた民族・宗教間の確執というパンドラの箱が開いてしまい、
歴史は終わるどころか冷戦時代よりもさらに混沌としたのでした。フクヤマは一転批判にさらされます。
しかし、フクヤマは反論します。
英語の“end”という単語には「終わり」という意味に加え「目標」という意味がある。
彼はこう述べています「自分が描いたのは歴史の最終目標としての自由民主主義であり、実際にそこに到達したとは言っていない。」
それはそのとおりだと思います。
フクシマはヘーゲリアンとして有名です。
ヘーゲルは「モノ自体(真の存在)」は人間には不可視であるとしたカントを批判し、哲学にはじめて歴史の要素を取り入れ、
人間が正反合のプロセスを繰り返していけばいずれ「絶対精神」に到達し、真の存在がわかるという、弁証法論を展開しました。
フクシマの議論がヘーゲルの考え方を下敷きにしていることがお分かりいただけると思います。
ヘーゲルの「絶対精神」をフクシマは「リベラル民主主義」に置き換えたのです。
「歴史の終わり」は本来「歴史の目的」と訳されるべき書だったのかもしれません(でも、そうしたらあんなに売れなかったかもしれませんね)。
さて、「目的」です。我々に引き付けて考えてみましょう。「人生の目的」です。
この時、弁証法を理解しておくことはよいことだと思います。
弁証法とは「A」が提示されるとそれに対して「反A」が持ち出され、葛藤の末、新しい「B」が生まれる。
そしてまた「反B」、そして「C」がというサイクル、英語では”dialectic”なので「弁証法」なんて難しく言いますが要は「対話法」です。
さて、誰もが「人生の目的」を考えます。
人生の目的には様々ございますが、ここでは社会への貢献という観点からの職業人としての目的に絞りましょう。
トクオカ、そしてライフシフトのスタッフはヘーゲル流の「対話法」によってじっくりと皆様の「職業人生の目的」のアウフヘーベン(正反合の「合」)をお手伝いいたします。
そこでは今まで見えていなかった自分自体(カントでいえば「モノ自体」)が次第に姿を現してくる。
大切なのは職業人としての目標を「A」だと思っている人に対する「反A」は遠くからやってこなければならないということです。
社内は同質化しておりなかなか「反A」はでてこない。その「遠く」をトクオカは見せるのです。
ある方の「A」が会社の中の既存事業での出世競争を勝ち抜くだったとしましょう。
しかし、思うにまかせず、そのAはいつの間にか「競争に巻き込まれない平穏なキャリアに耐える」に変質しているかもしれない、これを「A´」としましょう。
しかし、ライフシフト大学やイノベーターシッププログラムで「反A´」に気づき、
そしてそのスキルもあわせて手にすることで「B」:「会社そのもを変えるようなイノベーションを起こす」に職業人生の目的がアウフヘーベンする。
別の方の「A」は「定年後再雇用で給与は半分になるが65歳までいられるだけいる」、もしくは「早期退職に応募して仕事はもうやらない」かもしれません。
しかし、イノベーターシップという「反A」を学ぶことで新しい「B」50後半で会社を飛び出し起業する、と全く異なる職業人としての”end”を得る。
「反A」を提示されると考えに誘われそして新しい「B」があなたの目に見えるようになります。
イノベーターシップもリスキリングも広い意味で対話の中で自分が変わっていくプロセスなのです。
是非身を投じてみてください。
認識論の始祖デカルト流の「我○○す、故に我なり」の境地に達することをお約束します。
では、皆様良いお年をお迎えください。