【連載シリーズ】「ナントナクリー」vs.「サイエンス」
「ナントナクリー」? 耳にしたことある方はごくごく稀だと思います。
今、在日外国人コミュニティで市民権を得つつあるのがこの言葉。“nantonakuly”。
お察しのとおり日本語の「なんとなく」由来です。
日本発のグローバル語彙に成長するかもしれませんよ。
「うーん、なんとなくこっちかなぁ・・」
「そうですね、なんとなくそんな感じですかねぇ」
我々が頻用する副詞「なんとなく」。これが英語にならない。
あえてしようとすると”without a reason”みたいな感じになるそうなのですが、特の語感は失われてしまいます。
じゃ、いっそそのまま英語にしちゃえってことで誕生した造語が”nantonakuly”
“Nantonakuly, I like this better.” のように使われる(そうです)。
上役に「なんとなくこれかな」と言われると理詰めの議論はそこで終了。あとは場の空気の流れにみなが身を任せて「なんとなく」決定が下されていく。
こんな光景は今日も津々浦々の会議室で繰り広げられていることでしょう。
もちろん、「なんとなく」という感覚は積み重ねられてきた暗黙知に支えられていることもあるでしょうし、
それ自体否定的にとらえるべきではないと思います。
ただ、あまりに便利に使われている可能性もあります。思考停止の偽装。
「判断した感」を出すといったように。
そこで、このnantonakulyの解毒剤として今回取り上げますのは弊社会長の徳岡が著書「リスキリング超入門」で提唱している5つの「S」から“Science”であります。
サイエンスといっても科学的知識で武装するということではありません。
そんなことは普通の人にはできません。
「サイエンスリテラシー」を上げるということと言ってもよいかもしれません。
アメリカの国立教育統計センターによると、科学リテラシーは
「個人としての意思決定、市民的・文化的な問題への参与、経済の生産性向上に必要な、科学的概念・手法に対する知識と理解」と定義されています。
「意思決定」に必要な「科学的概念・手法」に通じているということです。
一般に日本人のサイエンスリテラシーは欧米諸国よりかなり低いと言われています。
その典型として挙げられる例のひとつが統計的思考の弱さです。
確率というものをあまり考えずに何かを安全か安全ではないかに二分してしまうといった傾向は日本の社会の特徴のひとつかもしれません。
さて、科学技術は日進月歩。
AIについて様々な議論が続いていたと思ったら突如生成AIが登場。
あっという間に仕事の在り方は大変貌。すべての人が生成AIの専門家になる必要などありません。
しかし、生成AIとは基本的にどのようなものなのか、
従来の機械学習AIと何が違うのかなどのツボを「なんとなく(質的に)」押さえておくことは、
生成AIに「使われる」ことなく生成AIを「使いこなす」うえで必要な科学的リテラシーと言えるでしょう。
次の大きな技術的変化として予想されるのが量子力学の産業応用です。
量子力学とはおおよそのところどういったものなのか。
「存在は確率的なものである」などと言われてもなかなかピンときませんが、
モノが存在するとはどういうことかということに対する根本的な認識変化を迫っているのが量子力学です。
学術的技術的な理解は専門家にお任せするとして、おおまかにとらえておくことは有益なはずです。
あと忘れちゃいけないのが生命工学と脳科学です。
脳機能や身体機能を飛躍的に増進できる新技術が登場すれば、恩恵にあずかり自らを「ホモデウス」(神たる人)化する富裕層。
その他の「ユースレスクラス」(無用階級)との生物学的分裂。
このような社会の二極分化を説いたのがハラリの「ホモデウス」でした。
SFチックではありますが、SFはしばしば将来の技術的洞察を与えてくれます。
技術についての一定のリテラシーの獲得はリスキリングのための「学びなおし」の重要なポイントのひとつになります。
先に挙げた「リスキリング超入門」の副題は「DXよりも重要な」ですが、サイエンスリテラシーが欠如したままDXを推進しても形だけのものになってしまうのではないでしょうか。
もっとも、今あげた例はリスキリングに必要な「サイエンス」についてのごく一端です。
より本質的な議論は是非「リスキリング超入門」を是非ご覧ください。
では、来月またお目にかかりましょう。
おっと、言い忘れました。
万事ギスギスしたこの世の中、「ナントナクリー」な生き方、きっと未来はそこにあるような気が個人的にはしております。